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唐津街

「唐津さるき」ブログにご訪問いただきありがとうございます。
気ままに唐津の今昔について、画像を交えて綴っています。お付き合いいただければ嬉しく思います。
201810月タイトル
10月 唐津街中では珍しい 元石町の稲穂


唐津藩は肥前名護屋に近く朝鮮とのかかわりが色濃い歴史の流れがあります。藩主家だけでも、豊臣秀吉に重用された寺沢広高から始まり、小笠原家まで6代入れ替わり唐津市民の祖先もかなりの人種が雑多に入り組んで文化形成がなされてきたと思われます。この点は同じ佐賀県でも鍋島家1代で栄えた佐賀藩とはかなり文化の違いを今でも感じるところがあります。唐津藩藩主で日本史の教科書に出てくるのは5代目の水野家藩主水野忠邦くらいしか記憶にありません。学んだ時も筆者は忠邦が天保の改革を行ったくらいしか知識がなく地元唐津藩主だったとは知りませんでした。
2018年4月から文献などを読みながらポチポチやっていきます。

テーマ : 九州のんびり旅情報
ジャンル : 地域情報

唐津くんち歴史考

唐津くんちまであと2週間を切りました。 昨日曳山会館を通りがかりましたら曳山の手入れ準備が行われていました。

小さい頃からのスリコミか勘違いか、唐津くんちの由来は、江戸時代唐津の町人が武士に対しての無礼講の機会というか、ガス抜きの手段として始まったとされていると思っていましたがいろいろ郷土の文献を読んでみますと一番山刀町の赤獅子製作が1819年(文政2年)ということなので、明治維新のわずか50年前から始まったということになります。14台の曳山のうち5台は明治に入ってから製作されました。

曳山ができる前は、唐津神社から西の浜まで神幸に傘鉾が付き添って巡行したという記録は3代藩主土井家から4代藩主水野家へ引き継ぐ際の覚書に残っています、つまり1763年のころですからそれでも維新から約100年前なので、無礼講の習慣があったにしても、思いのほか歴史はそんなに古いものではないと再認識しました。





くんち準備2018
曳山会館裏の曳山準備

初秋の鏡山

先週気候も良くなったので、鏡山に行ってきました。以前は休まず30分で登れたのですが、だんだん年なのか途中水飲み休憩したりで時間がかかるようになりました。情けないですがしょうがない、スキーのストックのような杖を使用して頑張ってゆっくり登っている先輩方もいらして頭が下がりました。

2018初秋鏡山1
まだ紅葉には早いですが、青々としたモミジもまた目にやさしく癒されました。


2018初秋鏡山3
頂上手前から見る唐津松浦川の景色もおだやかで、ここまで登るともう一息です。


2018初秋鏡山4
上場の池のほとりの木々は少し色づき始めています。

小笠原家その3 長行(ながみち)長生(ながなり)親子

徳川家の滅亡前後で、小笠原長行(ながみち)はどのように人生を送ったかについて述べたいと思います。

慶応4年(1868)に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍とともに長行も箱館まで従軍し最後まで幕府に忠誠を尽くしました。この時唐津の長国から帰国命令があったにもかかわらず、実父ゆかりの奥州棚倉に向かい新政府軍が会津に迫ると棚倉から会津に向かい敗れると、榎本武揚と開陽丸で箱館に向かいますが、榎本の箱館政権には参画していません。五稜郭の戦いで旧幕府勢力が破れると、長行はアメリカ汽船で脱出潜伏して明治4年まで行方不明となりました。 アメリカ汽船に乗って海外に移住した説もあります。一方で同時期の唐津藩主長国は、唐津藩を守るため、世継ぎの長行を義絶し、明治新政府についています、なんだか真田一族を連想するような生き様です。かくして清和天皇の流れをくむ小笠原家は鎌倉時代から明治の廃藩置県に至るまでの約400年間の武家としての役目を終えます。家紋は唐津の随所に見かける三階菱です。

明治5年7月に長行は東京に戻り、新政府に自首して父長国の赦免運動もあり同8月に赦免されています。その後は官職をすべて断り駒込で余生を送り、明治24年に没しています。  

長行が幕府に忠誠の一念を全うした人生で長州征伐などもあり、唐津藩(人)は明治初期は、地理的にも薩長土肥の肥に入るわけですがかような経緯で、新政府の要職につくこともなく、しばらく冷遇されることになります。この一例として廃藩置県から明治16年に佐賀県に落ち着くまで、唐津は短期間で唐津県・伊万里県・佐賀県・長崎県・佐賀県とめまくるしく変わっています。素直に考えると唐津藩は長崎見回り役もやっていたので、歴史的には長崎県が自然なのかもしれません。

なお長行の長男「長生(ながなり)」は、明治になり海軍参謀として活躍し乃木希典の信頼厚く、その後昭和天皇の教育係を務めています。近松寺内にある小笠原記念館の設立にも関わり、小笠原記念館には、昭和天皇より長生に下賜された昭和天皇の幼少衣や長生の達筆の書が展示されています。

長行の墓所は元は天王寺(東京都台東区)の谷中霊園でありましたが、長生により日蓮宗の妙祐山幸龍寺(世田谷区北烏山)に改葬されたそうです。機会があれば烏山の幸龍寺を訪ねてみようと思います。

小笠原記念館外観
近松寺内に建つ小笠原記念館

小笠原家家系図
小笠原記念館にある小笠原家家系図

小笠原家その2 長行(ながみち)

小笠原長行は前回にも書きましたが、江戸幕府最後の老中で、幕末から明治維新にかけての傑出した唐津人であると思います。世に知られていることは、生麦事件の事後処理と第2次長州征伐の総大将ですが、その他にもありますので書いてみます。長行は棚倉から国替えとなった初代藩主長昌の長男として1822年に唐津で生まれましたが、1歳で長昌が死去したため、4人続けて養子が短期間に迎えられました。4人目の長国のなんと年上の養嗣子となりました。直接世継ぎしなかったのは1歳という年齢とさらなる国替えを恐れた為とされています。21歳で江戸に上り土佐藩主山内容堂の推挙で奏者番から若年寄・老中と藩主以外で異例の出世を果たしました、ここに彼の並外れた才覚を感じますが、老中としても将軍家茂が京都で軟禁された際も英国船で海路京都へ千数百の兵を引き連れて救出に向かうなど勇猛果敢な面がありましたが、失敗に終わり老中職もやめたり復帰したりの繰り返しでした。年少時から自分の目で長崎を見聞していたこともあり、根幹思想は攘夷の風が吹き荒れるこの時代に一貫して開国して国益を上げる考えだったようです。その後家茂に第二次長州征伐の全権委任を受け、小倉を主とした戦いに敗戦、慶喜の時代には三度老中に任命され神戸開港など外交面の功績大でありました。 その後戊辰戦争以降は次回書きます。



小笠原長行肖像
小笠原長行肖像(国立国会図書館ウエブサイトより)


小笠原長行よろい
長行の兜 カラワン君の兜のモデルにもなっています

小笠原家その1

小笠原家は唐津藩最後の藩主です。小笠原長行は一般にはあまり知られていませんが、江戸幕府最後の老中であります。
理解力が衰えた私が小笠原家の家系を理解するのに時間がかかりましたが、ごく簡単にしますと下記のようです。小笠原家は源氏の流れを汲み、源平合戦から戊辰戦争まで武家を貫いた家系でその中の松本藩小笠原忠知系列といわれる長昌(ながまさ)から唐津とのかかわりが始まります。弱小譜代大名の小笠原長昌は水野忠邦の後を受け1817年奥州棚倉藩からはるばる国替えで唐津にやってきます。そのうえ先代水野忠邦が出世のために使った借財も背負ったようです。唐津での小笠原家は男子に恵まれず短期間に4人の養子を迎えて江戸末期に活躍した小笠原長行に引き継がれます。  続く


小笠原記念館内部近松寺境内にある小笠原記念館

久敬社(唐津人の勉学寄宿舎)

江戸から明治時代にかけて、どの地方(藩)にも江戸における同郷者が勉学する寄宿舎があると思いますが、唐津藩の場合は維新後に小笠原長行が自邸の一部に設けて「久敬社(きゅうけいしゃ)」と名付けたところから始まるようです。
変遷の歴史としてはウィキペディア(一部抜粋)によると、下記のように記されています。

1878年(明治11年)11月3日久敬社が発足。東京市麹町番町の小笠原邸に寄宿舎として久敬社塾が開設された。
888年(明治21年)4月に小石川表町に移転。
1935年(昭和10年)1月に東京市の道路拡張計画に伴い敷地を失ったことで久敬社塾は閉鎖
1941年(昭和16年)6月に新宿西大久保にて工事が始まり、翌年4月に再開された。
1966年(昭和41年)3月に川崎市麻生区千代ヶ丘に移転、現在に至る
2010年4月より出身地に関わらず受け入れを始める
2018年現在は、4年生2人、3年生8人、2年生7人、1年生3人が在塾している

久敬社では10月に地域ぐるみで「唐津くんち」をやるそうで、年々盛大に行われています。
金丸弘美氏の「えんや」という唐津くんちを題材にした著書によると、唐津くんちの1番山赤獅子を模したもので原寸大本物かと見まがうばかりだそうです。昭和53年に塾生たちにより制作され台車は中古車が使われているとのことです。
塾生同士で囃子のけいこもして10月に町内を引き回すとのことで、騒音など近隣からも苦情どころか毎年地域住民に楽しみにされ地域に見事に溶け込んでいるとのこと、いやはやこの情熱に敬服しました。

実は私がサラリーマン時代勤務先がこの地域を開発したこともあり、上司や同僚にここ千代ヶ丘の住人が多く、私が唐津出身というとこの町内曳山のことがよく話題になりましたが、もっと小規模のものを想像していただけに最近このことを知り驚きました。

この久敬社曳山の引き回しの様子が下記ブログでYouTube動画で見ることができます。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3777/kunchi/kyukei-sha.html
ほんとに唐津から運んできたような赤獅子です。


久敬社2
金丸弘美氏の「えんや」より

久敬社1
金丸弘美氏の「えんや」より

寺沢志摩守広高

初代唐津藩主は寺沢志摩守広高だと、唐津人なら学校で歴史の時間に折々で習います。私は名前は習った記憶がありますが、詳細はこの年まで何もわかっていませんでしたので関連本を読んでみました。

歴代藩主石碑
舞鶴橋にある歴代藩主の石碑(一番右に寺沢家が刻してあります)

寺沢志摩守広高は永禄六年(1563年)に尾張の国で生まれました。父の広政とともに秀吉に仕え長崎奉行まで出世しました。一旦はキリシタンに改宗しましたが棄教したようです。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵で肥前名護屋城の普請などを務めて名を上げたようです。秀吉に重用されましたが関ヶ原の戦いでは家康に近づき東軍で功績をあげ飛び地で天草4万石加増されました。
秀吉から家康に見事に鞍替えし、世渡りがうまかったようです。寛永10年(1633年)死去、広高の没後、嫡子・寺沢堅高の代に島原の乱が勃発した責任を問われ天草領地が没収となり失意のうちに堅高が自殺し寺沢家は2代で断絶し唐津藩主は大久保田忠職に代わりました。かように寺沢家は結構波乱万丈な生涯でありました。

寺沢はか
寺沢家のお墓
寺沢家のお墓は、今や唐津市民の買い物ストリートとなった鏡バイパスから少し南に入った、鏡神社のそばにあります。

鏡目抜き通り
鏡バイパスには、今やイオンをはじめとして家電・ホームセンターなどさまざまな量販店、ファーストフードやコンビニなど生活に必要なものはここに来たら揃います。


トライアル跡地はトライアル

福岡本拠地の格安スーパーのトライアルが、栄町東からなくなって1年余りたちました。鏡地区にはもう一軒あるのですが旧唐津内にはなくなって困ったと思っていました。しばらく建物だけ残っていましたが、以前書きましたが更地になって今後どうなるか興味津々でした。 最近こちらのほうはご無沙汰で久しぶりに歩きましたら、工事が進んでしましたメインのスラブや基礎工事も終わり
鉄骨もだいぶ組みあがっています。看板見てビックリやらうれしいやらなんと跡地もトライアルになる模様です。

新TRIAL 2


新TRIAL 3


新TRIAL看板
このペースだと来春くらいがオープンでしょうかね。

鏡のコスモス

連休の最終日、鏡山の南山麓にきれいなコスモス畑があるとのうわさを聞き、鏡山のふもとを歩き回りました。
最初は国の重要文化財の朝鮮銅鐘がある恵日寺を表敬訪問しました。このお寺は1375年創建ということですから、約650年前ということで歴史の重みがあります。
恵日寺1

さらに歩き続けると鏡小学校ではなく鏡山小学校や古墳を過ぎて歩き続けますが、うわさに聞くようなコスモスがなかなかないなーと思いながら歩いてますと、少し小ぶりのコスモス畑に遭遇しました。
コスモス鏡4

鏡コスモス1
少し秋を感じましたがコスモスはもう盛りを過ぎていたようです、少し残念でした。
鏡コスモス10


鏡はなかなか見ごたえのある、生垣も多く中でも3次元の刈込のウエーブがきいた生け垣は最高でしたが手入れも大変でないかと余計な心配をしてしました。
鏡 垣根珍品
素晴らしい出来栄え。
プロフィール

ヨシ

Author:ヨシ
唐津の街歩きの何気ない日常写真をちょっとコメントを入れて
掲載しています。

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