唐津街
「唐津さるき」ブログにご訪問いただきありがとうございます。
気ままに唐津の今昔について、画像を交えて綴っています。お付き合いいただければ嬉しく思います。
令和4年5月 唐津城の藤棚2022
唐津藩は肥前名護屋に近く朝鮮とのかかわりが色濃い歴史の流れがあります。藩主家だけでも、豊臣秀吉に重用された寺沢広高からはじまり、小笠原家まで6代の譜代大名が入れ替わり唐津市民の祖先もかなりの人種が雑多に入り組んで文化形成がなされてきたと思われます。又外様大名が闊歩する九州の地で、藩主がうまく立ちまわるのはかなりの苦労がしのばれます。
この点は同じ佐賀県でも鍋島家1代で栄えた佐賀藩とはかなり文化の違いを今でも感じるところがあります。唐津藩藩主で日本史の教科書に出てくるのは5代目の水野家藩主水野忠邦くらいしか記憶にありません。学んだ時も私は忠邦が天保の改革を行ったくらいしか知識がなく地元唐津藩主だったとは知りませんでした。
2018年4月から文献などを読みながらポチポチやっていきます。
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令和4年5月 唐津城の藤棚2022
唐津藩は肥前名護屋に近く朝鮮とのかかわりが色濃い歴史の流れがあります。藩主家だけでも、豊臣秀吉に重用された寺沢広高からはじまり、小笠原家まで6代の譜代大名が入れ替わり唐津市民の祖先もかなりの人種が雑多に入り組んで文化形成がなされてきたと思われます。又外様大名が闊歩する九州の地で、藩主がうまく立ちまわるのはかなりの苦労がしのばれます。
この点は同じ佐賀県でも鍋島家1代で栄えた佐賀藩とはかなり文化の違いを今でも感じるところがあります。唐津藩藩主で日本史の教科書に出てくるのは5代目の水野家藩主水野忠邦くらいしか記憶にありません。学んだ時も私は忠邦が天保の改革を行ったくらいしか知識がなく地元唐津藩主だったとは知りませんでした。
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